2012年4月29日日曜日


世界最大の滝 イグアス国立公園

イグアス。グアラニー語で「大なる水」。ナイアガラ、ヴィクトリアと並んで世界三大瀑布(ばくふ=滝)と呼ばれるイグアスの滝は、高さこそ80mと、100mを超えるヴィクトリアの滝に及ばないものの、川幅2.7km、36億リットル/分の水量は、他のふたつの滝をはるかに凌駕する。

今回はアルゼンチン、ブラジルそれぞれで世界遺産登録されている「イグアス国立公園」を紹介しよう。

2012年4月28日土曜日


回答日:2008-09-18

この回答は1人の人に役立ちました

ポパイさん、こんにちは。

●鉄道

でバッファローからアルバニーまで入力してみると、

Buffalo-Depew, NY(BUF) ⇒Albany-Rensselaer, NY(ALB)
4:50 am 9:45 am 合計4h 55m  43ドル
  7:25 am       12:50 pm      5h 25m 43ドル
  9:35 am       3:40 pm       6h 5m  61ドル
  1:25 pm       6:50 pm       5h 25m 43ドル
こんな感じですね。

2012年4月26日木曜日


ミシガンの皆さん、毎日暑いですねぇ・・・(汗)
いや、ミシガンだけでなく、アメリカ中西部、東部、南部・・・そして特に日本の皆さんにおきましては、台風後は一時涼しかったみたいですが、またすぐに暑くなるようですね。節電もあるし。。。
くれぐれも熱中症にはお気をつけください。

さて、こんな暑い日ですが、合宿ツアー2日目に訪れたこの滝はとーっても涼しかった(寒かった)。

合宿ツアー2日目。
「完全に不完全燃焼」(←矛盾した表現?)だったパラダイスのホテルをチェックアウトした我らは、ここから車で30分足らずのところにあるTahquamenon Falls State Park (タークアメノンフォールズ州立公園)に向かいました。

↓UP地図再登場。移動距離が近いので上手く表現できないけど、青い●がパラダイス。そして赤い●がタークアメノンフォールズ州立公園。車だとわずかな距離です。

ここは、大きな森の中に雄大な滝がある州立公園で、UPの見所の1つです。
ここには、Upper FallsとLower Fallsという2つの滝があります。
それぞれ、車で10〜15分くらい離れていますが、トレッキングコースもあり歩いてこの二つの滝をめぐることもできます。
ただ、片道4マイル(6.4キロ:往復すると約13キロ)と距離が長く、虫(蚊など)も多いので車で移動することにしました。

相方は子供の頃、家族でこの州立公園に来たことがあるそうです。
そして二つの滝の間もトレッキングしてめぐったそうです。んまぁ、アクティブ!!
今では想像できないわぁ〜。

               ←これ、滝のアイコンです・・・

2012年4月25日水曜日


  • まだブーン 観光の
    クチコミ情報がありません。
    一番最初に書いてみませんか?

2012年4月24日火曜日


 
 (後編)

  (質疑応答の続き)
 
 ――コスタリカに対して援助をする国のなかにオランダやデンマークがある。そういう国が上位にあるのは持続可能な発展を支えるためか?
 3月20日にコスタリカ政府が声明を発表し、ホワイトハウスのWebによれば、アメリカを支持する国のリストの中にコスタリカが入っている。アメリカと中米各国との間に貿易協定が構想されいるが、関連があるからか?

 E:持続可能な開発についてだが、今質問された方のアプローチは環境についてですね?
 デンマークの中米の国向けの援助は、大部分がニカラグアだ。コスタリカは中進国にあたるので、比較的援助はいらないからだろう。オランダからの援助はたくさんある。オランダが援助しているプロジェクトとして、生物学の機関と協力してやっているものがある。コスタリカにある豊富な自然的資源−動物・植物・虫など−は毎日新種が発見されている程豊富で、この調査活動に対してオランダが援助している。日本政府とも話しているが、生物資源の分類という知識を他国にも導入していただけるし、有用な知識なので活用していきたい。
 2つ目の質問は特に面白いものだ。ここでは個人的な意見を述べる。学術的な場で話をしていることだし、アカデミックな見地から意見を述べさせていただく(政府の意見ではない)。
 外交を効果的に行うには、原則論と国益の両方のバランスが必要だ。原則論だけでも利益だけでも外交はうまくいかない。
 コスタリカはアメリカ支持の結論を出すまで、戦争が始まるかもしれないというギリギリの時までかなり国連に義理を立て、国連の指示に最後まで従おうとした。スペイン語を読める人はコスタリカ政府のHPにいって欲しい。そこには国連支持するということが書いているはずだ。
 フセインが世界のためにいいことをやっていると思わないが、我々は国連の枠内で問題を解決し、事態をいい方向に向かわせる可能性を信じているし、敬意を表していた。だがアメリカはスペイン、イングランドより近しい友好国だ。地理的に近く、コスタリカの貿易の50%近くをアメリカは握っている。観光客の6割はアメリカ人だ。何か大きい災害が起きるたびにアメリカに助けてもらっている。これが状況というものだ。
 今回のケースは、例えば私の兄や友達ががよくない女と結婚する、我々はあんな女と結婚してはダメだよと忠告する、だが本人はそれでも結婚するんだと言い張る、それと同じだ。それでも結婚式に行くには友達や自分の兄だからだ。
 他の中米の国々はアメリカに支持したが、我々は最後まで迷った。これ以上はいえないが、これを持って私の答えとしたい。

 (ここで主催者が質問者に挙手を求める。質問を先に受け付け、まとめて答えてもらうという形式をとりたいという提案に対し、エチェベリア氏が「明日17時の飛行機で帰るので、15時までには空港に行っていなければならない、それに遅れるような質問だけはやめてくれ」と発言し、一同大爆笑。)

2012年4月22日日曜日


概要

ペット可, バリアフリーアクセス, エアコン, 禁煙ルーム, 冷蔵庫, ケーブル/衛星放送テレビ, インルーム・ムービー, 簡易キッチン, コーヒー/ティーメーカー, 電子レンジ, ヘアドライヤー, テレビ, 身体障害者対応の部屋, 車椅子用通路, ファミリールーム

2012年4月21日土曜日


ナイアガラ・フォールズ 観光 クチコミ 67

  • 冬の観光にも!

    4.0参考票:0票 ジャーニー・ビハインド・ザ・フォールズ

    3月にナイアガラに行きました。 霧の乙女号が4月からの運行ということで、することがなくなり、興味はなかったのですが、せっかくなので行ってみよう... (もっと読む)

2012年4月19日木曜日


コロラド州
State of Colorado
州の愛称: 百年祭の州
The Centennial State

コロラド州 (Colorado CO/kɒləˈræd/[1])は、アメリカ合衆国西部にある州である。北側はワイオミング州に接し、北東はネブラスカ州、東側はカンザス州、南側はニューメキシコ州とオクラホマ州に、西側はユタ州に接している。南西の隅はフォー・コーナーズと呼ばれる4つの州がその角を接するポイントであり、ここでアリゾナ州とも接していることになる。州の南北にはロッキー山脈が貫いており、州全体の平均標高が全米で一番高い、山岳地帯の州である。州の西部はコロラド高原、東の方はグレートプレーンズ(大平原)である。面積では50州の中で第8位だが、人口では第22位である。

州都および人口最大都市は、ロッキー山脈の東側にあるデンバー市である。

州の名前はスペイン人探検家が名付けたコロラド川に因んでおり、「コロラド」という言葉は「赤みをおびた」を意味するスペイン語で、コロラド川が山岳部から運ぶ赤い沈泥を表している。

主要記事:コロラド州の歴史

[編集] 領土と領有者の変遷

今日コロラド州となっている地域には、13,000年以上前からインディアンが住んでいた。ラリマー郡にあるリンデンマイアー遺跡では紀元前11200年から同3000年と同定できる人工物が出土している。ロッキー山脈の東縁は主要な回遊ルートであり、アメリカ大陸に人類が広がっていくうえで重要だった。古代プエブロ人が、コロラド高原のバレーやメサに住んでいた[2]。ユト族インディアンはロッキー山脈の南部と西部にある山岳部バレーに住んでいた。アラパホ族やシャイアン族は狩猟のためにハイプレーンズ(グレートプレーンズ西部の高原)を横切って西に移動していた。

ロッキー山脈の東にあるコロラド州の東側の部分は1803年のルイジアナ買収のときに、アメリカ合衆国がフランスから獲得した。この時にアメリカ合衆国が得た領土は、スペインのサンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコ入植地周辺の広大な領土と重なり、紛争が生じた。その地域ではスペインがインディアンと交易を行っていた。1806年、ゼブロン・パイク大佐がアメリカ陸軍の偵察隊を率いて、この論争のあった地域に入った。翌年2月にパイクとその隊員はサンルイス・バレーでスペイン騎兵隊に逮捕されてチワワ州に連行され、7月にはメキシコから追放された。

1819年のアダムズ=オニス条約により、スペインからフロリダを購入した見返りとして、アメリカ合衆国はアーカンザス川の南と西、北緯42度線より南、西経100度線より西の全ての土地を放棄した。この条約は1821年2月22日に執行となった。スペインとの国境問題が解決したことで、1821年8月10日にはミズーリ準州の南東部をミズーリ州として昇格させた。コロラド州の北東部となる所を含んでいたミズーリ準州の残り部分は未編入領土となり、奴隷制問題のために33年間もそのままにされた。スペインは11年間に及んだ戦争の後で、1821年8月24日に結んだコルドバ条約により、メキシコの独立を承認した。メキシコはアダムズ=オニス条約を1831年に批准した。1835年から1836年にかけてのテキサス革命によってアメリカ合衆国とメキシコの間の紛 争が加速され、1846年開戦の米墨戦争に繋がった。1848年に戦争を終わらせるために結ばれたグアダルーペ・イダルゴ条約によって、メキシコはその北部領土をアメリカ合衆国に割譲した。

19世紀半ば、オレゴン・カントリー、カリフォルニアの新しい金鉱原、およびソルトレイク・バレーのモルモン教徒入植地であるディザレットに陸路向かうアメリカ人開拓者の大半は、岩の多いロッキー山脈の南部を避け、ノース・プラット川とスウィートウォーター川を辿って、ロッキー山脈の南部と中部の間にある大陸分水界では最も低い峠であるサウス・パスを越えて進んだ。1849年、ソルトレイク・バレーのモルモン教徒は超法規的なディザレット州を創設し、グレートベースンの全体と、グリーン川、グランド川、コロラド川の流域全てを領域に含むものと主張した。モルモン教徒は神権政治的であり、複婚を是認していたので、連邦政府はモルモン教徒の新政府を承認することをにべもなくはねつけた。その代わりに1850年妥協 によって、メキシコ割譲地とテキサス州が領有主張していた北西部を、1つの新州、すなわちカリフォルニア州と、2つの準州、すなわちニューメキシコ準州とユタ準州に分けた。1851年4月9日、ニューメキシコのタオス地域からきたメキシコ系アメリカ人開拓者が、当時ニューメキシコ準州内、後にコロラド州の最初のヨーロッパ系アメリカ人開拓地としてサンルイスの村を設立した。

1854年、アメリカ合衆国上院議員スティーブン・ダグラスが連邦議会を説得して、大陸分水界より東の領土をカンザス準州とネブラスカ準州に分け、さらにその南にインディアン領土と呼ばれる未編入領域を設けた。新しい準州2つはその領域内で奴隷制を採用するかを住民が決定できるものとされたが、この妥協は自由土地派と奴隷制擁護派の間の敵意を増しただけだった。

[編集] パイクスピーク・ゴールドラッシュ

1858年7月、当時のカンザス準州西部にあるサウス・プラット川沿いで金が発見され、パイクスピーク・ゴールドラッシュが始まった[3]。地域にある川や水流沿いの砂金鉱床は急速に取り尽くされたが、鉱山師達が間もなく近くの山の中でさらに大きな価値のある金鉱脈を発見した。

金の探求者達が1859年8月24日にジェファーソン準州の暫定政府を組織化したが、奴隷制に関する論議の煽りを食ってこの新しい準州に対するアメリカ合衆国議会の承認を得られなかった。1860年11月6日、アメリカ合衆国大統領選挙でエイブラハム・リンカーンが大統領に当選し、これが引き金となって南部の奴隷州9州が合衆国からの脱退を宣言し、内乱の脅威が引き起こされた。議会を支配していた共和党は自由州の政治力を補強するために、即座に1861年1月29日、カンザス準州東部を自由州のカンザス州として昇格させ、準州西部の金が探索される地域は未編入領土として残した。

[編集] 準州法

その30日後にあたる1861年2月28日、任期終了間近のジェームズ・ブキャナン大統領が、自由準州としてコロラド準州を創設する法案に署名した[4]。当初定められたコロラドの境界は今日も変わっていない。コロラド川の源流が領域内にあると考えられていたので、準州の名前にコロラドが選ばれた[5]。1776年、スペイン人のシルベストレ・バレス・デ・エスカランテ神父が、地域のインディアンは山から川が運ぶ赤茶色の沈泥故に、この川を「エル・リオ・コロラド」と呼んでいたことを記録していた[6]。1859年、ジョン・マコーム大尉の率いるアメリカ陸軍地形工学遠征隊が、現在のユタ州キャニオンランズ国立公園内で、グリーン川とグランド川の合流する地点を突き止めた[7]。マコーム隊はこの合流点をコロラド川の源流と指定した。

1861年4月12日、サウスカロライナ州の砲兵隊がサムター砦に砲撃を開始して、南北戦争が始まった。多くの金探求者がアメリカ連合国に同調的だったが、過半数は熱烈に北軍側に忠誠な者達だった。

1862年、テキサス州の騎兵隊がニューメキシコ準州に侵入して、3月10日にサンタフェ市を占領した。アメリカ連合国が西部に侵入した目的はコロラドとカリフォルニアの金鉱原を支配するか妨害するかし、太平洋の港を抑えることだった。このテキサス部隊の動きを遮るために、急拵えで編成されたコロラドの志願兵部隊が、デンバーからニューメキシコ準州のグロリエタ峠に進んだ。3月28日、コロラド部隊とニューメキシコの地元志願兵がグロリエタ峠の戦いでテキサス部隊の進軍を止め、その大砲や物資運搬荷車を破壊し、馬とラバ500頭を逃走させた。テキサス部隊はサンタフェまでの撤退を強いられた。その作戦のための物資を失い、ニューメキシコでもほとんど支援を得られなかったテキサス部隊はサンタフェを放棄してサンアン トニオに戻った。その後アメリカ連合国が南西部に進出する試みはなかった。

1864年、コロラド準州知事ジョン・エバンスがジョン・チヴィントン牧師を志願兵部隊の大佐に任命し、牛を盗むと告発されていたシャイアン族やアラパホ族インディアンから開拓者を守るよう命令を出した。チヴィントン大佐はその部隊にサンドクリーク沿いで宿営しているシャイアン族やアラパホ族の集団を攻撃するよう命じた。チヴィントンはこのとき500名以上の戦士を殺したと報告した。この民兵隊はデンバーに凱旋したが、幾人かの役人がこの戦闘と呼ばれているものは、戦う意志の無いインディアンを明らかに虐殺したものだと報告した。殺された者の多くは女子供であり、死体は酷いやり方で損傷されていた。アメリカ陸軍による審問でこの事件を告発し、その後大統領になるアンドリュー・ジョンソンがエバンス知事の辞 任を求めたが、結局実行者の誰も罰せられることは無かった。

南北戦争の戦中および戦後、金で財を築けなかった山師の多くが故郷に戻ったが、意志のある少数が準州内に留まり、鉱山、製材所、農園、牧場および町を造った。1864年9月14日、ジェイムズ・ハフがアージェンタイン峠近くで銀を発見し、数多い銀山の最初のものになった。1867年、ユニオン・パシフィック鉄道が準州北東隅のウェア、現在のジュールズバーグまで線路を敷いた。1869年5月10日、ユニオン・パシフィック鉄道はユタ準州プロモントリー・サミットでセントラル・パシフィック鉄道の線路と結合し、最初の大陸横断鉄道が開通した。翌1870年6月にはデンバー・パシフィック鉄道がデンバー市まで伸び、2か月後にはカンザス・パシフィック鉄道が開通して2本目の大陸横断鉄道となった。1872年、準州内南西部にあったユト族居� �地内のサンフアン山脈で大きな銀の鉱脈が発見された。翌年ユト族はサンフアン居留地から移動させられた。

[編集] 州昇格

1875年3月3日、アメリカ合衆国議会はコロラド準州が州に昇格するための要求事項を規定する授権法を成立させた[8]。1876年8月1日(アメリカ合衆国建国100周年から28日後)、ユリシーズ・グラント大統領がコロラドを合衆国第38番目の州として昇格させる宣言書に署名した。このことで、コロラド州は「100周年の州」という渾名がついた[9]

1878年にリードビル近くで大きな銀の鉱脈が発見され、コロラド・シルバーブームが始まった。1890年のシャーマン銀購入法で銀鉱業が活性化し、その数ヶ月後にはコロラドで最後かつ最大の金の鉱脈がクリップル・クリークで発見されて、金探鉱者の新しい世代を惹き付けた。コロラド州は1893年11月7日から婦人参政権を認めて普通選挙を導入した2番目の州となり、また住民投票を行った最初の州となった。1893年にシャーマン銀購入法が撤廃され、コロラドの不安定な鉱業と農業が崩壊したが、その後は緩りとまた着実に回復していった。

1908年にデンバーで民主党全国大会が開催された。これは西部の州で二大政党の全国大会が開催される初の機会となった。1930年の国勢調査で、州人口は初めて100万人を超えた。世界恐慌と1930年代のダストボウルはコロラドを直撃したが、第二次世界大戦後の移民の大きな波が訪れてコロラドの運命を変えた。観光業が州経済の主幹となり、ハイテクが重要な経済推進力となった。国勢調査局の推計では2009年に州人口が500万人を超えた。

アメリカ海軍の3隻の軍艦がUSSコロラドと名付けられてきた。最初のUSSコロラドはコロラド川に因む命名だった。後の2艦はコロラド州に因むものであり、戦艦USSコロラドは1941年から第二次世界大戦の太平洋戦線で活躍した。真珠湾攻撃のときは、カリフォルニア州サンディエゴの海軍基地にいたので、攻撃を免れた。

参照:コロラド州の郡一覧、List of Colorado rivers、List of Colorado National Parks

コロラド州は緯線と経線のみで囲まれている(州境線がすべて緯線か経線になっている)州であり(このような州は、他にワイオミング州とユタ州がある)、北緯37度から41度まで、西経102度3分から109度3分までの範囲を占めている[8]。南西端の北緯37度及び西経109度3分では、アリゾナ州、ニューメキシコ州、ユタ州とコロラド州が1点で接しており、そこはフォー・コーナーズと呼ばれている。コロラド準州時代に州境の標識を打つとき、測量のミスで幾つかの小さな歪みができた。その中でも著名なのがユタ準州との境界である[10]。このずれを一旦連邦政府、関係州、準州が認めてしまったので、ずれを含んだままコロラド準州の法的な境界として定められた[11]。 T ロッキー山脈の支脈であるフロント山脈より東に広がる平原は、グレートプレーンズの一部(ハイプレーンズ)となっており、海抜は1,000 から 2,000  mである。東側でカンザス州及びネブラスカ州と隣接している。この平原にはまばらに人が住んでいるのみで、そのほとんどはサウスプラット川、アーカンザス川、州間高速道路70号線道路沿いに定住している。雨量は年平均約15インチ (380 mm) と不足気味である。いくつか灌漑した農場はあるが、農地の多くが乾燥農場または牧場として使われている。秋まき麦がこの地域の典型的な作物であり、ほとんどの町に給水塔や穀物倉庫がそびえ立っている。

主要な都市は、フロント山脈のすぐ東の州間高速道路25号線道路沿いにある。コロラド州の大部分の住民はこの都市化の進んだ一帯に暮らしている。

[編集] 山岳部

フロント山脈の西部に大西洋側と太平洋側とを分ける大陸分水界が位置している。それより西は西部斜面と呼ばれ、この一帯のの水はコロラド川を経て太平洋の方向に下っている。

ロッキー山脈の奥地には、大きな谷や高く広々とした盆地がいくつもある。北には、大陸分水界の東側にノースパークがある。このノースパークからは、ノースプラット川が北のワイオミング州に向かって流れる。そのすぐ南は、ミドルパークであるが、ここは大陸分水界の西側になっていて、ここからはコロラド川が流れている。サウスパークはサウスプラット川の水源である。

コロラド州内のロッキー山脈はフォーティーナとして知られる14,000 フィート (4,270 m) 以上の高さの山が54峰もある[12]。コロラド州では、南部で海抜約12,000 フィート (4,000 m)、北部で海抜約10,500 フィート (3,200 m)の高さまでは、針葉樹 やアスペン(ヤマナラシ)などの樹木が生えている(その標高は森林限界と言われ、これより高地では高山植物しか育たない)。ロッキー山脈では冬季は雪に覆われるが、ほとんどの雪は8月中旬までに溶けてしまい、小さな冠雪や氷河が多少残る程度である。南西部のサンフアン山脈からフロント山脈のボルダーやセントラルシティまで伸びているコロラド・ミネラルベルトは、かつての金銀採掘が行われていた地域に重なっている。

レイク郡にあるエルバート山の頂点は標高14,440フィート (4,401 m) であり、コロラド州とロッキー山脈の最高地点である[13]。コロラド州は全領域が標高3,300フィート (1,000 m) 以上であることでは全米唯一の州である。アリカリー川がユマ郡からカンザス州シャイアン郡に流れ出る所の標高が3,317フィート (1,011 m) で州内最低地点である。この最低地点が全米の州の最低地点中では最高の数値になっている[14][15]

[編集] 平原部

コロラド州の領域の3分の1強は平原とうねりのある土地である。ロッキー山脈の東側はハイプレーンズのコロラド東部平原であり、標高3,350フィート (1,329 m) から7,360フィート (2,243 m) まで変化するグレートプレーンズの部分である。中西部の平原州であるカンザス州とネブラスカ州がそれぞれ東と北東に境を接している。コロラドの平原は通常プレーリーと見なされるが、実際には落葉性の森林、ビュート(孤立した丘)、および渓谷が散在し、ニューメキシコ州の高原部と似ている。東部は主に農地に使われ小さな農業村や町がある。降水量はそこそこであり、年間15インチ (380 mm) から25インチ (635 mm) 程度である[16]。通常夏は暑くて乾燥し、冬は非常に寒くて、雪が降り、氷が張る。農産物として、トウモロコシ、小麦、干し草、大豆、オート麦が生産されている。牧畜も盛んで牛や豚が飼育されている。灌漑用の水はサウスプラット川、アーカンザス川などの水流から取られており、またアルトワ式井戸など地下水源からも取られている。しかし、灌漑用に地下水を多く使うことで地下水源が減少している。

[編集] フロント山脈

コロラド州の人口の大半はロッキー山脈の東端、フロント山脈都市回廊のワイオミング州シャイアンとコロラド州プエブロの間に住んでいる。この地域はコロラド州の中央にあるロッキー山脈によって太平洋からの偏西風から部分的に守られている。他にそこそこの人口がある地域はコロラド州西端のグランドジャンクションとデュランゴである。

2012年4月17日火曜日



JMTとは?なぜそこを歩いたのか?

JMTとはアメリカの長距離遊歩道の一つである。北のヨセミテ国立公園から南のMt.Whitneyまでの約340キロの区間で、全長が繋がったのは1938年である。John Muir Trail通称JMTPacific Crest Trailと部分的に重なっている所もあるが、特に美しいと言われる北のYosemiteから南のMt.Whitney(アメリカ本土の最高峰、4421m)の山道に付けられた名前である。名前の由来は19世紀から20世紀の初頭に掛けSierra Nevadaに関する多くの著述をし、また自然保護区の設定を説いたJohn Muirの威徳を偲ぶものである。山道は北からYosemite国立公園、Ansel Adams自然保護区、Devil's Postpile 国有記念物、John Muir 自然保護区、Kings Canyon国立公園、Sequoia 国立公園と繋がって居り、保護管理されている。

島国の小国日本から見ると、アメリカは途轍も無く大きい。連続する山道で長いのはロッキー山脈を南北に貫くContinental Divide Trail(大陸分水嶺山道)で、此れは5000キロに及ぶ。更にその西側にはSierra NevadaCascade 山脈を通るPacific Crest Trail4250キロ)や東部にはAppalachian National Scenic Trail3510キロ)等がある。これらの山道を春から秋に掛けて一気に踏破しようとする人は多く居るが、中々達成は難しい。

今夏僕が行ったのはJohn Muir Trail(340キロ、Mt.Whitneyからの下りPortalまでを含めると355キロ余り)であり、これはSierra Nevada山脈(640キロ)の約半分に過ぎない。

何故ここに行くことにしたのか? 2009年の暮れパタゴニアの走り歩きの旅をし、彼の地の花崗岩の山、特に橙色をした針状の山、Mt.Fitz Roy,に痛く感動を覚えた。昨年3月初め訪米の際、Patago―   niaに一緒に行ったGlennTanyaDinky 夫婦は、アメリカにはそれらを凌ぐ美しい山が有ると言うのだ。彼等は此れを見る為に、夏休みを利用して、十分な装備、食料も持たず、全行程を8日で踏破したという。PatagoniaAndesAdventure Tourを主催しているDevyは今年2月に会った時、同じ道を5日半で踏破したと話していた。彼等は優れたランナーである。

Patagoniaの山を凌ぐ花崗岩の山は観てみたい。美しい自然に対する強烈な憧れと好奇心である。又、350キロ以上の山行を完全野宿で踏破することは体力的にも試して置きたい。歳が歳だけに来年では遅すぎる。是非2011年の夏に実施しなければならない。この話を原さんにすると、彼も是非行きたいと言っていたが、昨年の暮れ再度確認すると、体調が良くないので、同行は無理との話であった。その後知り合いに声を掛けると、元々は山屋のランナー薄葉さんが行きたいと言って来た。僕が連続10回目の完走を目指していたが90キロで諦めた1999年の鶴岡を完走した男で、その後僕の生前葬のレースにも来ているので、御存知の方も居られよう。心強い仲間が出来、計画を具体化させることにした。

山行準備

入山するには許可証が要る。これは24週間前から受け付けており、8月初旬の3日間の日付を入れ、ファクスで当局に申請したが、許可は得られなかった。許可には事前許可と、入山前日申請許可の2つがあるので、麓の事務所で前日の許可をもらう他無い。

Glennに勧められた本や地図を頼りに計画を練る。Spain語でSierraは山、Nevadaは雪を意味する。その発生は1億年前に遡り、主として花崗岩で出来ている。400万年前に地殻変動で隆起し、その後氷河の侵食により現在の姿になったという。この山系には3つの国立公園があるが、JMTを歩くとそれら全部を観ることが出来るのだ。

旅とは何だろうか? 業務上の旅、観光や物見遊山の旅、宗教上の巡礼の旅、目的のない流離の旅、新婚旅行なども旅であろう。これ等の殆どが、先人の作った出来上がった道に沿っての移動である。多くの場合幾つかの交通機関が利用出来、飲食や宿泊も随意出来る所での移動である。移動手段によって、旅を分けることも可能であろう。鉄道、船、自転車、ローラースケート等などの旅である。

これ等に比べ、山行は長距離、長日程であっても旅の範疇からはみ出しているような気がする。多くの場合、これも先人の用意した道を辿るが、交通機関は利用出来ず、宿泊や食事などを供する所は殆どない所での移動である。人里からは遠く離れ、緊急の場合であっても連絡も取れず、救出援助も儘成らない場所での移動だ。今回も一旦山に入ると、外への交信は一切不可能となる。携帯などは使えないのだ。カメラの電源の充電も殆ど出来ない。充電が出来る所もあるが、何時間か其処に留まる必要があり、又充電装置そのものも馬鹿に成らない重さと嵩があるので、市販の乾電池を必要数持って行くのが得策であろう。

更にもう一つの移動がる。道無き道を行く移動だ。これは冒険と言うべきで、又別な範疇であろう。誰も行った事のない偏狭の地で新たな道を探しながら目的地に向かう移動だ。これら全てに共通している点は行きっぱなしでは無く、必ず平常の生活地に戻ることであろう。何か新しい物を求めて異地に行くが、其処は人間生活に取って快適でない事が多く、長くは人が住めない環境なのだ。

僕は気が向いた所があれば、殆ど何も準備せずにふらりと出かけることが多い。先ず現地に行って、その後その場所の事を調べるのだ。此れは余り良い方法ではない事は分かっているが、如何しても何時もそうなってしまうのだ。事前に色々調べておいた方が、効率よく見て歩け、得る物も多いとは思うが、何時もそうなってしまう。牛に似た所があるのかもしれない。先ず取り敢えず、食ってしまう。その後じっくり噛み返し、租借する。根がセッカチなのだ。

ただ今回は流石に行けば何とか成るとは思えない。人の住まない所には1週間以上居たことは無い。15−20キロの荷物を背負っての旅は精精23日しかしたことが無い。3週間連続の野宿の旅も初めてだ。自然の怖さは十分に分かっている。事前に多くの事を調べ、必要な準備をしなければ成らない。

大きな地震が起こり、身動きが取れなくなった期間中に地図や先人の書いた案内書を読んで調べる。どの道にもその道の先人が居る。JMTを毎年の様に歩いている日本人も居り、これらの先人から情報を頂く。又    Trail上又はその傍にある施設の管理者とも接触し、Trailの状況も確認した。

起伏の多い山中は、高度が上がるに連れ、色々厄介な現象が起こる場所でもある。水は途中で何とか確保出来たとしても、食料、寝具、衣類全てを背負っての移動となる。道とは言っても集落や町の道とは大きく異なり、川には橋の架かっていない所も多い。こんな所に行くには下調べだけでは十分ではない。それらの文献はあくまでも、本の刊行の直前の状態の記述で、鵜呑みにするわけには行かない。山の地形は雪崩や、崖崩れ等により大きく変わる。ある時まであった、橋が流されている場合もあろう。山に入ったら、事前の準備はさて置いて、現実の状況に何とか対応し、先に進まなければ成らない。

人間の体力には限度があり、余り重い物を背負っては遠くまで移動することは出来ない。食べ物が無くなれば、他の動物とは異なり、動きが取れなくなる。我々には食料を現地調達しながら、移動する能力は残念ながら無い。車と同じでエネルギーがなければ、移動は不可能だ。どの位の食料を持っていれば、何処まで行けるか。その地点での補給は可能か?不可能であれば如何するか?

食料に関してはもう一つ考慮する点がある。熊対策である。カリフォルニアの州旗の真ん中は大きな熊であることは、何処かで述べてきた。ある調査によると雑食の黒熊は80年代から2007年には倍増し、25000−30000頭に増え、その多くはSierra Nevadaに生息すると言う。熊は人間を襲うことは滅多に無いらしい。只、人間の食べる物は気に入って居るらしく、食べ物は結構狙われるようだ。

この為に山に入る人は熊缶と呼ばれている、特殊な食料入れを持つことが義務付けられている。強化樹脂で出来た筒型の容器で、蓋は特殊なストッパーが付いており、熊は此れを開けることが出来ず、勿論容器を破壊することも出来ない。検査機関の認定を得た数種類の缶が市販されている。2月訪米の際に見てきたが、内容は10リッター強であり、風袋は1キロ強、値段は80−200ドルである。高い物は風袋が約半分であった。0.5キロの違いが大きな差を生む世界なのだ。

此の中にどれだけの食料を詰め込めるか、此れによって、行き着ける距離は予測できる。行く前には実際10Lの容器にどれだけの食料が入るのかも調べなければ成らない。又、予定の距離をこなせない場合も想定する必要がある。食べ物は消化したが、距離が稼げていない場合だ。

日頃余り考えた事も考えなければ成らない。カロリーの問題である。携行食品は前述の体力と容器の制約から、軽量、小容量、高カロリーでなければ成らない。これ等の条件は生食では満たすことは出来ない。乾燥物であってもその平均発熱量は100g当たり400Cal以下が圧倒的に多い。此れより更に高カロリーの物を探すと、ナッツ類がある。ポテトチップ、カリントウ、ミルクチョコレート等がある。油はカロリーは高いが携行には難がある。やや落ちるがマヨネーズは良いような気がする。これらは例外なく高油脂含有食品であり、通常主食の範疇には入らない。ポテトチップは重量比発熱量は高いが嵩が大きい。もって行くとすれば、粉末状にするしかない。粉末にしたらドンナ味に成るのか? こ� ��等も出発の前に全部当たって置く必要がある。

主食や主菜に成るような携行食品もあるが、上記3つの条件を満たす物は少ない。多くは冷凍乾燥品で嵩が大きい。探検と冒険の国Norwayには良い携行食品が有ると聞いていた。昨年  Spitsbergenに行った時に見たがこれは冷凍乾燥真空パックした物で、嵩の面でも良いような気がするので、山行前に2度北欧に行った際、買って来た。

山行中の1日の必要カロリーは少なくとも2500カロリーは必要だ。この為には、嵩、重量に対して、カロリーの多いものでなくては成らない。摂取カロリーが消費カロリーを下回る場合、予備燃料の体脂肪を使う事になる。2キロ程度の減量は許容の範囲内だ。

10Lの容器にどれ程の食料が入るのであろうか? 乾燥物であるので重量のわりには嵩は大きい。100グラム当たり平均500カロリーの食品を選ぶことが可能であれば、日に500グラムの食料が必要で、密度を0.5とするとその容量は1Lとなり、10Lの熊缶には10日分の食料が入ることになり、中間地点まで行けることになる。其処から先は熊箱と呼ばれる熊が取ること出来ない食料保管箱が彼方此方のキャンプ場に設置されており、缶に入り切れない食べ物はここに入れて置けば安心して寝ることが出来る。幾分大目の食料を補給し、23日はこのような所を捜して泊まる必要もあろう。何しろ、熊に食料を取られれば、その時点で山行は出来なくなり、横道を辿り、人里に出なければならない事態となるのだ。

我が家にある全ての計量機器を総動員し、その他に牛乳パックを使って実験をして見る。ナッツ類、チョコレート、袋入りのインスタント物を除き、踏み潰したり、ミキサーに掛けて減容を図る。ある程度まで細かく砕くと、嵩は減るが、それ以上細かくしても減らず、逆に増え出すことも分かった。又ポテトチップ、カリントウ等はミキサーに掛けると油が分離してしまう。それに食味、食感の問題も考慮し、結局ラーメン、ポテトチップ、カリントウは踏み潰しただけか、更に擂鉢に押し付けて適当な粒状になる様にした。

候補に上げた食料は勿論日常食では無く、カロリー、重量、嵩の条件を満たしても、山行中毎日食ってちゃんと出て行くことを確認しておく必要がある。持って行っても2日目から喰えなく成ったり、糞詰まりや下痢を起したら山行の継続は不可能になる。そこで、野菜、果物、肉、魚類は家内が作った物、主食としては前に挙げたものを1週間ほど喰ってみた。実際の山中食とは程遠い物であるが、実験は有効であったと思う。

ナッツ類は胡桃、アーモンド、ペーカンナッツ、ピーナッツ、ヒマワリ、ゴマの等量混合物(粒の大小を混ぜる事により空隙を少なく出来る)、ポテトチップ、カリン糖、インスタントラーメンは減容の為砕いた物を食べたが、何とか喰えるし、出るほうも支障がないことが確認できた。この他に必要なのは、ビタミン剤、電解質、若干の塩である。熊缶の嵩にゆとりがあれば、動物性蛋白を含むインスタント食品、高カロリースナック、サラミソーセージ、乾し肉、チーズ等も持って行きたい。嗜好品であるコーヒーやお茶は最初から諦める。

ポテトチップ、ラーメン等は米粒程に砕いて重量と嵩を測って見ると、何とか上記の組み合わせでカロリーの確保は出来そうなことが分かった。家内は何も言わなかったが、正気の沙汰ではないと思って居たに違いない。僕は戦前生まれで、食べ物は大抵のものであれば、あれこれ言わずに喰える恵まれた人間の一人である。ある目的の為には日常の快適性はいとも簡単に捨てさる事が出来る。一ヶ月以内であれば、この程度の偏食をしても、健康に実害はないと考えている。減容と現地でゴミを出さない為に、個装した食品の殆どは取り除き、種類ごとにやや大き目の袋に入れ熊缶の中で馴染みが良く空間を少なくするようにした。ラーメンのスープ等も例外とはしなかった。

何かをしようと思えば食は斯くも重大な関心ごとなのだ。僕にはカロリー零の食品の存在理由が全く理解出来ず、罰が当たった話しであると思える。食は生きる為に食うのであり、享楽のための物では無い。人間を除き痩せる為に食ったり呑んだりする動物は居ない様に思う。如何に人間が知に溺れ、狂った存在かを知るべきでは無いか?

山行中、途中で補給が可能な地点が何箇所かあるが、中々丁度しない。行程の五日位までは寄り道をすれば、調達可能な所はある。出発時に持って出た食べ物の減り方を見て、補給することも考える。当然寄り道は短い方が良い。後に行く程、補給可能地点は減り、寄り道の距離も大きくなる。幸いな事に丁度中ほどにMuir Trail Ranchと言う観光施設があり、其処で食料の中継をしてくれることが分かった。郵便局を通してそこ宛てに送ると、麓の局からそこまで運んで来て、依頼主が到着するまで預かって呉れる。当然有料で、11キロまでが60ドル、其れより重い物は割り増し料金となる。背に腹は代えられないので、ここを補給所とすることに決める。物はアメリカ到着後、現地調達食料も含め、登り出す麓の局から送ることにする。僕の体力を考え、途中一切寄り道をせず、兎に角JMTの踏破を第一目標とし、補給はこの中間点の一ヶ所と決める。

大きなグループのユトリのある山行であれば、あちこちでDonnage Packと呼ばれる馬を使った補給が可能だ。此れは75キロまで、馬方1人馬1頭で1日3百jほどだと聞く。

食料に関しては各々の好みがあるので、各自で用意することに決め、其の為薄葉さんは上京してアルファー化米を中心に独自のメニューを用意した。

僕にとっては此れだけ長期の山行は生まれて初めてである。色々な情報を参考に行程表を二つ作った。便や途中の交通手段の制約を加味し17−18日で踏破完了の案とした。どちらも2〜3日のゆとりを持った案である。天候や怪我、雪や川の増水で、遅れがでることも有りうる。非力な僕の体力では何が起こるかわからない。余裕は必要なのだ。

 自分で書いたシナリオを演じ切れる自信は無いのだ。役者の様に本番の前に練習は出来ない。いきなり本番なのだ。でも、何かの指針が無ければ、目的を完遂は出来ない。

薄葉さんも彼なりに研究したが、考えて居てもしょうがなく、兎に角遣ってみようという。一応の行程を目安に後は現場調整と言う事で話が落ち着く。

専門家である彼には装備の検討を御願いした。テント、加熱器等は皆彼の物を使う事にし、又僕のザックも彼の物を使う事にした。全体の軽量化の為、僕はカメラを持たず、写真は全て彼に御願いした。彼のカメラは使い捨ての電池式、で充電式と比べ、全体的に軽くなるのだ。

アメリカへ

8月2日薄葉さんとNaritaのホテルに泊まる。夏場は航空運賃の高い時期であり、安い物を探すと    Asiana航空の仁川廻りであり、成田発は早いので空港泊まりが必要であった。

3日、Asiana航空は初めてであったが、仁川まではBusiness Classに載せて呉れた。  AsianaのLoungeは良いが機内サーヴィスはやや劣る。San Franciscoに昼頃着き、市内のYouth Hostelに荷物を置き、買い物に出かける。熊缶を探したが目当ての品が無かったので、登り口のYosemiteで買うことにし、僅かな時間ではあったが、市の中心部を見て回った。

翌日4日、BARTでRichmondまで行きAMTAKに乗り換える。途中までは順調に行ったが、   Stocktonの先で山火事に会い、長い間列車が止まる。駅で止まったが、線路の脇にはBlack―   berryが沢山成って居り、まだやや早いが、熟れた物もあり、乗客や通りかかった人が摘んでいた。このBerryは至るは所に沢山出来る。遅れに対して、水とスナックが供された。

長い間待った後、列車が動き出す。暫く行くと、線路の両側が黒くなっており、燃え燻ぶって居る所もある。風は追い風で、火は線路に沿い進行方向に燃え広がって行ったのだ。まだ消火活動が続けられている所もある。乾いた農作物や、線路際の枯れ草が焼けており、家屋、車なども焼けていた。何キロも燃え広がっていたが、人家への被害が少なかったのは何よりだ。

目的地のMercedの駅には4.5時間遅れて着いた。乗り継ぎのバスには間に合わないので、ホテルを用意すると言われたが、行程上ゆとりが無いので、自前でタクシーでYosemiteまで行く事にし、タクシーを頼んで貰う。入山前の大きなハップニングだ。

260ドル程余分に掛かったが、この選択は賢明であったと思える。タクシーの運転士は子連れで5歳の男の子が助手席に乗っていた。目的地に着いたのは日も変わる時間である。父子家庭なのであろうか?余計な詮索はしなかった。

Yosemite Villageに着き明かりの点いている店の前で止まると、直ぐに警察の車が来た。この時間Camp地も宿も無い、お前ら如何するのだと言う。こちらの事情の話すと、車に乗れと言う。乗って程なく、車は止まり、彼氏曰く"此処が許可書を出す事務所だ。お前ら並んで待って居る内に寝てしまった事にしろ。"中々話しの分かる年配の警官であった。アメリカでは許可された所以外での野宿は禁止で、逮捕される場合がある。

この処置のお陰で、我々は先頭に並び、翌日4人にしか出ない入山許可書を手にする事が出来たのだ。災い転じて福とはこのことなりや?

事務所入り口横のベランダにマットを敷き寝袋に納まる。直ぐにもう一人男が来た。其の男は椅子に腰掛けて待っていた。明るくなる頃には10人余りの列が出来ていた。

起きて周りを歩いてみる。許可書を出すYosemite Wilderness Officeは木造平屋建てで大きなものではない。廻りは針葉樹や落葉樹の巨木が取り囲んでおり、リスが走り回っている。天気は快晴、朝の空気は旨い。巨木の間からは陽を受けて白色にみえる花崗岩の急峻な岩肌が見える。又遠くには高い所から落ちる白い流れも見える。ヨセミテ滝である。此れだけを見ても来た甲斐があったと思うほどだ。日本にはない大きな景色なのだ。

8時半に森林官が来て、今日の許可証は4人分と発表があった。やれやれである。その後、建物の前で、入山前の注意事項、キャンプ地、焚き火、排泄物の処理法、洗濯の仕方、熊の習性等の説明があった。 628

実際に許可書が出たのは11時ごろであった。其の後、燃料や熊缶、釣りの許可書を買に行く。そこそこの規模の店であったが、使えそうな熊缶は一つしかない。しかも、サンフランシスコで敬遠して買わなかったタイプの物だ。2つ必要だと言うとCurry Villageにある店に行ったらという。バスに乗ってその店に行ったら、あるにはあったがこれも同じ気に入らないタイプの物であった。

2012年4月16日月曜日


地球温暖化防止を行っていくために一般市民の皆様な積極的な取り組みが必要とされます。その活動の普及啓発として行われた「キャンドルナイト」。全国的にも夏至と冬至の日に2時間で禁止を消しロウソクで過ごそうと「100万人のキャンドルナイト」も行われています。

2012年4月13日金曜日


バス釣りは、周りの最も人気のあるスポーツの一つであり、それは全国の釣り人に親しまれています。この状態は、そのバス釣りのためによく知られているようにジョージア州も例外ではありません。多数があるので、この理由は あなたがグルジアでsmallmouth、オオクチバス、浅瀬や斑点低音を見つけることができる利用可能なエリア。アウト、これらのあなたがオオクチバスは、そのサイズのため、おそらく後に最も豊富で最も求められているとことがわかります それは素晴らしい戦いを置くことができるという事実。

2012年4月12日木曜日


アレンタウン(英: Allentown)はアメリカ合衆国ペンシルベニア州東部に位置する都市。同州リーハイ郡の郡庁所在地である。人口は118,032人(2010年国勢調査)[1]で、フィラデルフィア、ピッツバーグに次ぐ州第3の都市である。市はリーハイ川に沿っており、隣接するベスレヘムとイーストン各市とともに、ペンシルベニア州東部とニュージャージー州西部におよぶリーハイ・バレーと呼ばれる都市圏を構成する。リーハイ・バレー全体での人口は821,173人(2010年国勢調査)を数える[1]。フィラデルフィアの北60マイル (95 km)、ニューヨーク市の西90マイル (145 km)に位置する。

人気の高いアミューズメントパーク「ドーニーパーク&ワイルドウォーター・キングダム」が近くにある。また4年制カレッジのシーダー・クレスト・カレッジとミュレンバーグ・カレッジが市内にある。

[編集] 設立

今日のアレンタウン市となった地域が最初に開拓されたのは1735年であり、その後1762年にウィリアム・アレンによってノーザンプトン町として整理された。アレンは富裕な海運商であり、ペンシルベニア植民地の判事で元フィラデルフィア市長であった[2]。町が造られた土地は、1735年にアレンがウィリアム・ペンの息子から購入した5,000エーカー (20 km2)の一部であった。アレンはノーザンプトン町がイーストンに替わってノーザンプトン郡の郡庁所在地となることを期待し、またリーハイ川に沿っておりフィラデルフィアに近いことから地域の商業中心にしたいと思った。アレンは息子のジェイムズに資産を譲り、1770年、ジェイムズは父親の狩猟用の小屋がある場所の近くにトラウト・ホールと呼ばれる夏の住み家を建てた。

1811年3月18日、この町は正式にボロ(borough)になった。1812年3月6日、ノーザンプトン郡の西半分がリーハイ郡となり、ノーザンプトン町が郡庁所在地に選ばれた。1833年4月16日に町名を正式にアレンタウンに変えた。この名前は既に長い間そういう通称とはなっていた。1867年3月12日に市制を布いた[2]

[編集] 自由の鐘

アレンタウンはアメリカ独立戦争の時に「自由の鐘」(当時はペンシルベニア植民地議会議事堂の鐘と呼ばれた)をイギリス軍の目からうまく隠しおおせた場所として歴史的な意義がある町である。1777年9月11日、ブランディワインの戦いでジョージ・ワシントン軍が敗北を喫し、革命政府の首都であったフィラデルフィア市は無防備な状態となったので、避けられないイギリス軍の攻撃に対する準備を行った。ペンシルベニア植民地最高執行委員会は、市内にある11の鐘を降ろして市内から運び出し、イギリス軍に取られないようにするよう命令を出した。この鐘には植民地議会議事堂、クライスト・チャーチ、セントピーターズ・チャーチなどの鐘が含まれていた。イギリス軍が鐘を捕獲すると溶解して大砲に鋳直す怖れがあった。こ� ��らの鐘は北のノーザンプトン町まで運ばれ、現在のアレンタウン市中心にあるオールド・シオン改革派教会の地下室に隠された。今日、教会地下室の聖体が自由の鐘の隠されていたまさにその場所を示している。それは自由の鐘の実物大公式レプリカであり、横腹には独立当時の13星国旗が巻かれている。

[編集] アメリカ産業革命の発祥の地

1830年代以前のアレンタウンは地域市場のみの小さな町だった。しかし、リーハイ運河が開通して町の商業と工業の能力を大きく高めた。このことで、大きな産業化の波が訪れ、国内でも最大の重工業と製造業の中心地の一つになった。アレンタウンは隣接するベスレヘムほど大きくはなかったが、地元の製鉄業で多くの雇用を生み出した。リーハイ・バレー鉄道などの鉄道が原材料と製品の輸送に重要となり、これも当時の大きな雇用元となった。この地域の急速な経済成長の期間は1873年恐慌と長期不況という2つのできごとで止まった。

製鉄業と鉄道産業に加えて、ビールの醸造でも強い伝統があり、ホーラカー・ブリュワリー(1897年設立、1978年閉鎖)[3]、ノイバイラー・ブリュワリー(1875年設立、1968年閉鎖)[4]などの幾つかの著名な醸造所があった。これらの醸造所はギネスに売却された[5]

[編集] 20世紀初期から現在

20世紀初期の経済回復は絹など繊維産業でもたらされた。アデレード・シルク・ミルは当時の世界でも最大級のものだったが、1881年に開業した。1928年までにリーハイ・バレーには140の絹と繊維の工場があり、地域でも2番目の製造業になった。1930年代までに、合成繊維が絹に取って代わり、絹製造は世界的に減少した。アレンタウンで最後まで残っていたカトワール・シルク・ミルも1989年に閉鎖した。1905年、マック・トラックスがアレンタウンに移転してきて、重工業の中心的存在になった。今日のアレンタウン経済はペンシルベニア州の他の地域と同じくサービス産業が中心となっている。

アレンタウンは北緯40度36分06秒 西経75度28分38秒 / 北緯40.60167度 西経75.47722度 / 40.60167; -75.47722 (40.601697, -75.477328)に位置する。アメリカ合衆国統計局によると、総面積は46.5km2である。うち45.9km2が陸地で、残り0.6km2が水域である。

[編集] 気候

アレンタウンの気候は蒸し暑い夏と温暖な春・秋、寒い冬に特徴付けられる、四季のはっきりした気候である。ケッペンの気候区分ではフィラデルフィアやニューヨークと同様温暖湿潤気候(Cfa)に属するが、内陸に入る分沿岸部よりも冬の寒さが若干厳しく、実際には亜寒帯湿潤気候に近い。天候は市の北にある標高1,000-1,600フィート(300-500m)のブルーマウンテンと、市の南縁にある標高500-1,000フィート(150-300m)のサウスマウンテンの影響を受ける。

2012年4月11日水曜日


530 ホテル, 口コミ数 : 13,893件

383 ホテル, 口コミ数 : 36,082件

17 ホテル, 口コミ数 : 3,756件

630 ホテル, 口コミ数 : 45,790件

197 ホテル, 口コミ数 : 607件

2012年4月9日月曜日


 今年の春、こんな感じでした。

 ガジュマルってどうゆう風に成長するのかなとおもっていました。

 はやく大きくなってほしいなと思い、夏の間、外にだしていたところ、かなり大きくなりました\(⌒○⌒)/

 そして、ひとまわり大きな鉢に植え替えました。

2012年4月8日日曜日


最近行った、ギリシア旅行の記録を何回かにわけてご紹介します。

成田からパリを経由して夜遅くアテネに到着。
早朝、アテネを発ってロードス島のディアゴラス国際空港に降り立ちました。。
ここは小さな空港ですが、夏のピークシーズンにはヨーロッパ各地から直行便が運行され、たくさんの観光客で賑わいます。
空港はロードスの中心ロードス・シティから車で15分ほどの距離。バスに乗って、ロードス・シティに向かうことにします。

2012年4月6日金曜日


2011-04-21 00:00:00 テーマ:ブログ

大震災チャリティコンサート全出演者/ソナポケ&ひこうき雲


第1141回 東日本大震災チャリティコンサート全出演者/ソナポケ&ひこうき雲

 コーダイ、アイロン、マティ、通称"ソナポケ"(ソナーポケット)、昨年から「好きだよ。~100回の後悔~」などが売れているが、大切な人への恋心をまっすぐ歌うラブソング。。と銘打った新曲「ラブレター。~いつだって逢いたくて~」が、早くもレコチョクダウンロードランキングで1位を記録、27日発売のシングルCDの大ヒットが予想されています。
 今日はソナポケと、20日、サントリーホールで開かれた*「全音楽界による音楽会」~東北関東大震災チャリティーコンサート出演者特集です。
*出演者と当日の楽曲は、動画サイトに無い場合、他の曲で構成しました。

pictures: Sonar Pocket / EMI Music Japan / sutoan office  途中下車前途有効
2011-04-20 00:00:00 テーマ:ブログ

クロード・チアリ Claude Ciari


第1140回 クロード・チアリ Claude Ciari

 大震災下、アメリカからのヒラリー長官緊急来日*CLICK )、宇宙飛行士野口聡一さんらへのガガーリンによる人類初の宇宙飛行50周年記念表彰などがありました。
 さて、今日は、弦の音が聴こえて数秒で、かもしだす哀調から、弾き手がすぐ分かるギタリスト、「三丁目の夕日」に出会ったような感覚を与えてくれる
クロード・チアリ で構成してみました。知っている曲、お好きな曲があればお楽しみください。

pictures: yutaka_tokyo_usb's fotolife. / Odeon Records / KADOKAWA HERALD PICTURES and other

2011-04-19 00:00:00 テーマ:ブログ

ダニエル・カール&少女時代 Daniel Kahl &Girls' Generation


第1139回 ダニエル・カール&少女時代
Daniel Kahl &So Nyeo Shi Dae/ Girls' Generation
 今日は2つの出来事を取り上げます。1つは、ドイツ系アメリカ人でタレントとしても人気のダニエル・カールさんの「海外メディア過熱報道への警告」活動。そして、もう1つは、お隣り韓国のガールズグループ「少女時代」男性客ステージ乱入・タレント連れ去り未遂事件です。



2012年4月4日水曜日


 

   

                                                   

                                             

                                                                    

                                                                      

                                                                                     


 



地理

デンバーは、米国西部コロラド州の州都で、ロッキー山脈東麓に位置し、北緯39度30分と日本の秋田市、盛岡市とほぼ同緯度にある。デンバーは、標高1,600m(1マイル)の高地にあるため、「マイル・ハイ・シティ」の愛称がある。デンバー市の人口は約58万人(デンバー・ボールダー都市圏人口約299万人)で、半径1,000キロ以内にはこれより大きい都市はない。

 



歴史

現在のデンバーに相当する地域には、ネイティブ・アメリカンの諸部族が居住していたが、16世紀央ば以降ヨーロッパ人が到来した。デンバーを含むロッキー山脈東側の部分は、1803年のルイジアナ買収の一部としてフランスから買い入れられ、アメリカ領となった。デンバーは、1859年に金鉱採掘のために出来た町で、幌馬車隊やカウボーイ、インディアン、ギャンブラー、ガンファイターが集まる「古い西部」の中心地であり、1867年に州都となった。鉱工業の発達、大陸横断鉄道の開通、灌漑設備の拡張等により、デンバーをはじめコロラドは急速に発展し、1876年にコロラドが38番目の州となったときには、デンバーは人口3万5千人の都市に成長していた。今日では、素晴らしい博物館や美術館、建築物、文化施設、公園などがあること で知られており、コロラド州の商工業、交通、文化の中心地である。

 



気候

デンバー市の年間平均湿度は38%、年降水量は389mm、平均気温は1月の最高が8℃、最低で−9℃、7月の最高は31℃、最低で13℃である。冬季にはロッキー山脈を中心に積雪を見るが、湿度が低いため雪質はパウダー状であり、これが多くのスキー客を引きつけている。また、年間を通じて好天の日が多く、デンバーの年間晴天日数は約300日と言われている。

 



日本との関係

デンバー市と日本との関係は、1886年に松平忠厚(上田藩々主の次男、米国で鉱山技師となる)が日本人として初めてコロラドの地を踏んで以来、日本人移民がデンバーにも入るようになり、1900年代初めのデンバーには、炭坑夫・鉄道工夫等として出稼ぎに来た日本人がかなり居住していた。第二次世界大戦当時、アメリカ政府により西海岸に住む日系人12万人が内陸部に強制移住させられた時、当時のコロラド州知事ラルフ・カー氏は、迫害された日系人を暖かく迎え入れた。コロラド州南東部にあったアマチ収容所にも州外から来た日系人が収容されていたことなどから、同州には多くの日系人が住むようになり現在に至っている。また山形県とコロラド州は姉妹県、高山市とデンバー市は姉妹都市関係にある。

 

      コロラド州在住日系人  約1万5千人 (米国2000年Census調査による)

      在留邦人         約4,200人   (2007年10月調査による)

 

またコロラド州には、約70社の日本関連企業が進出している。進出企業の業種としては、商社、製造、エレクトロニクス、光学機器、サービス業など多様であり、特にハイテク企業が研究開発(R&D)や販売の拠点を置いている例が多い。主な企業としてはペンタックスが米国本社を置いているほか、ホンダ、ソニー、富士通がR&D施設を設けている。貿易取引については、日本はコロラド州にとって4番目の貿易取引国(2007年)であり、州の輸出額の約4.9%が日本向けである。輸出商品としてはコンピューター製品、食肉、機械類等である。

 

近年では、観光目的の邦人旅行者が増加している。特に、冬季にはスキーのメッカとしてのコロラドを訪れる邦人が多く、風習の違いからくる不注意もあって邦人旅行者による事故やトラブルも散見されるようになっている。

 



観光地及び見所



1.市内の見所

 

(1)コロラド州議会議事堂(Colorado State Capitol)

この州議会議事堂の特徴は、6,800グラムの純金で覆われたドーム。議事堂への階段の13段目はちょうど海抜1マイル(1.6キロメートル)に位置している。議場が見られる無料ツアーがあり、会期中であれば実際に討議しているところを見学することも出来る。ツアーが実施されるのは、月曜から金曜の午前9時から午後3時30分まで。

 

(2)デンバー美術館(Denver Art Museum)

40,000点以上の美術品が展示されている。中には世界最大規模のアメリカン・インディアンの芸術作品が展示されている。

 

(3)アメリカ西部美術館(Museum of Western Art)

アメリカ西部を題材とするトップクラスの芸術家の絵画と彫刻が展示されている。同美術館はビクトリア様式の建物となっていて、かつてはギャンブル場兼売春宿として使われていたものである。

住所:1727 Tremont Place  電話:(303)296-1880

 

(4)トライアノン美術館(Trianon Museum of Art Gallery)

18世紀のヨーロッパの絵画、家具のほか東洋の美術品が展示されている。

 

(5)黒人西部博物館・文化遺産センター(Black American West Museum)

カウボーイなど西部開拓の役割を担った黒人たちの歴史に触れることが出来る。

 

(6)コロラド歴史博物館(Colorado History Museum)

インディアンの工芸品や、昔の砦やインディアンの岩窟住居の模型、幌馬車、金鉱採掘の道具、1860年当時のデンバーの様子を表した模型と歴史的な写真が展示されている。

住所:13th & Broadway  電話:(303)866-3682

 

(7)デンバー・パフォーミングアーツ・コンプレックス(Denver Performing Arts Complex)

全米で5番目に大きい劇場コンプレックス。7つの劇場と米国で最初の円形シンフォニーホールやコンサートホールがある。演劇やポピュラー音楽、ジャズ、ダンス、映画、オペラ、交響楽、一般音楽が楽しめる。公演は有料だが、予約すれば施設は無料で見学出来る。

 

(8)コロラド鉄道博物館(Colorado Railroad Museum)

狭軌の機関車と車輌の収集に関してはコロラドで最大。線路の模型、鉄道関連の各種展示がある。ギフトショップでは鉄道関係のおみやげが買える。

 

(9)ミニチュア・人形・玩具博物館(Denver Museum of Miniatures, Dolls and Toys)

ミニチュアや人形、おもちゃを集めた博物館。建物は歴史的建造物である。また、日米友好のために交換された日本からの答礼人形「ミス・ヨコハマ」が展示されている。

住所:1880 Gaylord 電話:(303)322-3704

 

(10)フォーニー乗り物博物館(Forney Transportation Museum)

自動車や馬車、機関車など300台以上が展示されている。中には、アメリカの女性飛行士、アメリア・エアハートが乗った「黄金虫キッセル号」Gold Bug Kisselも含まれている。

住所:4303 Brighton Blvd. 電話:(303)297-1113

 

(11)デンバー自然史博物館(Denver Museum of Natural Science)

全米で7番目に大きな博物館。世界4大陸における動植物生息状況立体的展示のほか、貴重な鉱物と化石が展示されている。また、完全な形で残っている恐竜の骨格7体と有史以前の動物の骨も90種類展示されている。映画が建物4階分の高さのスクリーン(15x25メートル)に写し出されるIMAX劇場や、天体に関する各種プログラムやレーザー光線によるショーが見られるチャールズ・C・ゲーツ・プラネタリウムがある。また最近宇宙空間を模した展示プログラムSpace Odyssayがオープンした。

 

(12)デンバー植物園(Denver Botanic Gardens)

屋外と屋内の植物園があり、土地の植物や外国産のものを合わせて、数千本の植物が植えられている。最近ラン等の熱帯植物を植えたコンパウンドを開園し、バラ園、日本庭園「松風園」とお茶室、高山植物園がある。また同植物園はオニ蓮のコレクションで有名である。

 

(13)連邦政府造幣局(United States Mint)

ここでは毎年50億個以上の硬貨が作られている。鋳造から個数の確認、袋詰めに至るまでの全行程が見られるツアーがある。ツアーは平日の午前8時から午後3時まで。

 

(14)モリーブラウン・ハウス博物館(Molly Brown House Museum)

豪華客船タイタニック号沈没の際、数少ない生き残りの1人として有名になった女性モリーブラウンの家。

 

(15)バイヤーズ・エバンズ・ハウス(Byers-Evans House)

ロッキーマウンテン・ニュース紙の創設者を記念して1883年に建てられたもので、デンバーの初期の様子が分かる展示が見られる。有料。

住所:1310 Bannock 電話:(303)623-0709

 

(16)4マイル歴史公園(4-Mile Historic Park)

1859年に建てられたデンバーで最も古い家が保存されている。この家は駅馬車の駅としても使われたもの。

住所:715 S. Forest 電話:(303)399-1859

 

(17)グラント・ハンフリーズ・マンション(Grant-Humphreys Mansion)

元州知事のジェームス・B・グラントが建てた豪邸で、部屋数は42室もある。

住所:770 Pennsylvania St. 電話:(303)894-2505

 

(18)エリッチ・ガーデンズ遊園地(Elitch Gardens Amusement Park)

3つのジェットコースターのほか、各種の乗物や生の音楽が楽しめる遊園地。キディランドや花の庭園もある。100年前に出来た歴史ある遊園地。

 

(19)サクラ・スクエア(Sakura Square)

サクラ・スクエアは、ダウンタウンの19番ストリートとローレンス・ストリートの一角に残る1ブロック四方のミニ・ジャパンタウンである。ロサンゼルスやサンフランシスコの日本人街の規模に比べると小さいが、その始まりは、ほぼ同年代までさかのぼる。1900年代の初め、鉄道工夫、炭坑夫、農業労働者として出稼ぎに来た日本人が商店や旅館、食堂などを営み、町が形成された。時代が変わり、日本人は郊外の住宅地域に移っていったが、1970年にはダウンタウンの再開発計画が進められることになり、連邦政府の基金を借りて建て替えられたのが現在のサクラ・スクエアである。日本食料品店や日本食レストラン、日系旅行社等がある。

場所:19thとLawrence St.の一角

 

(20)メジャー・スポーツ球場

2012年4月2日月曜日